江戸時代の寛永12年(1635年)に檀家制度が作られました。この檀家制度の成立により、だれでもどこかの寺院の檀家にならなければなりませんでした。
ところが熊本の「ムラ」( ※注 参照 )の場合、なかなか旦那寺を引き受ける寺がありませんでした。
春竹村の「ムラ」の場合ようやく八代郡野津の「勝専坊(しょうせんぼう)」が旦那寺を引き受けました。
そこで誰かが亡くなると40キロ以上離れた「勝専坊」まで「とどけまいり」をしていましたが、
遠隔地であり葬式や法事の時には寺から直接来られることもほとんど無かったと言われます。
江戸の中期以降熊本市内の「成満寺(じょうまんじ)」が旦那寺となりましたが、おそらく「勝専坊」の依頼によるものと考えられます。
さらに明治以降は「善教寺」と「正覚寺」が旦那寺になりました。
春竹の「ムラ」の人たちは浄土真宗の信仰心がとても厚かったといわれています。
ただ差別は厳然としてあり、仏事法要などで旦那寺にお参りに行っても様々な差別を受けました。
亡くなった人が出ても、お経なしの野辺送りが多かったようです。
近くの寺に頼んでも僧侶はなかなか来てくれないので、通りがかりの僧侶や素人でお経を上げることができる人に頼んで葬式を行うこともあったといわれます。
明治以降、差別されることもなく、着の身着のままで気兼ねなく説教を聞いたりお参りするところが欲しいという村人の切実な願いから、
春竹説教所の建設が持ち上がりました。
説教所の土地は末広徳次郎氏と田中惣平氏の寄贈によるもので、信仰に厚い仏教青年会の若者が中心になって寄付集めを行い、
大正9年(1920年)から4年がかりで完成しました。
その後、村の信仰の中心として説教所には村人が宗教行事の度に集まり、子どもの遊び場にもなりました。
近年、説教所から正式な寺院にしようという声が門徒から起こり、
地域の代表者の努力により平成22年(2010年)に宗教法人「春荘寺(しゅんしょうじ)」として登記されました。
※注 「ムラ」という表記について
武士の時代(鎌倉・室町・戦国・安土桃山・江戸)になると各地の有力な武将(江戸時代は大名)は、
支配地域に鎧づくりの材料に必要な皮革をつくることができる専門の技術を持った人々を京都近辺から連れてくるようになりました。
こうした牛馬から皮革をつくる専門の人々を中世の頃より皮多(かわた)と呼び、城下町の外の農村部に住まわせました。
日常的には百姓同様に農業に従事する一方で、皮革づくりと城下の警固役などを負わされていました。
これらの人々が住んでいた地域は現在では被差別地域と言われますが、このホームページでは差別につながる語句を使わないという趣旨で、
このような地域のことを指してカタカナで「ムラ」と表現しています。
春竹・本荘地区の起こりは古く建武5年(1338年)に書かれた「詫磨文書」(たくまもんじょ)の中に「馬渡カハタ作」という表現で、
この地域に皮多(農業の傍ら役目として死牛馬の処理をする人)が暮らしていたという記録があります。
この史料は全国的に見ても皮多の初出史料であると熊本学園大の山本尚友教授は指摘します。
そして辛崎神社ですが、宝暦11年(1761年)の「本庄手永春竹村下名寄御帳」には、原村(本庄村・春竹村にまたがる「ムラ」)の氏神として
「辛崎宮」があげられています。
江戸時代の西日本の「ムラ」には神社の存在は少ないのですが、肥後国では近世中期から「ムラ」に唐崎神社の存在が確認できると山本教授は言います。
そして特徴的なことは肥後国では「ムラ」以外に唐崎(辛崎)神社の存在が確認されないのです。
唐崎神社は近江の大津市唐崎に所在する神社で日吉神社の攝社です。
神社の名称から近江国からの来住者が肥後国の「ムラ」の基礎を築いたのではないかと推測できます。
辛崎神社は「ムラ」の歴史の上でも貴重な存在であるといえます。
現在辛崎神社は神社総代の手により守られ、年末年始初詣の行事、春期例大祭(4月29日)、夏期例大祭=茅の輪くぐり(7月29日)、
馬追(9月日曜日)、秋期例大祭=秋祭り(10月29日)などの年中行事を行い、地域住民のよりどころとして維持されています。